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Author:hiro
私の人生、チャゲアスがいてくれるおかげです。
今のところASKAとの最接近距離は5cm!
と、今までの私でしたが、今は心と向かいつつ仏教的に生き精進する毎日です。
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
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・・・苦しみとは、身から出た錆・・・

テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『パティパダー巻頭法話→自分が作った網に自分でかかる』http://www.j-theravada.net/howa/howa210.html
※抜粋ですので、リンク先↑を開いて読んでください。適宜改行をしております。※


■仏教思想と罪の概念

 宗教は「罪」という言葉を中心として自分の教えを拡げますが、仏教は「執着・束縛」という言葉を中心に真理を語るのです。罪の概念は、仏教思想の中心的な概念ではありません。
束縛があるから、人は罪を犯すと説くのです。同時に、束縛があるから、人は善も行うのです。

■ 執着の親分

 それでは束縛とは何かと、理解しなくてはいけなくなります。
束縛するもの・束縛の対象は、簡単に理解できます。子供に、家族に執着する。財産に執着する。知識に、権力に執着する。仕事にも執着する。食べ物や娯楽にも執着する。
無数の執着のなかで、最強の執着は、自分自身の身体に執着することです。
自分の肉体に執着するからこそ、他の執着も起きてくるのです。執着の親分は、自分の身体なのです。他の執着は子分なのです。

------------------(中略)---------------------------

■ 束縛のカラクリ

 束縛のカラクリを理解しましょう。この肉体に「感覚(vedanâ)」があります。感覚があるから、感じるのです。
目・耳・鼻・舌・身体で感じるのです。束縛・執着は、この感覚によって生まれるのです。
美しいものを目で感じると、欲が生じます。醜いものを目で感じると、見たくはない、という怒りが生じます。同時に、見たいものを探し求める意欲も現れます。
これをまとめて、「渇愛(tanhâ)」と言います。
渇愛(tanhâ) という衝動を原因として、憂い悲しみ悩み苦しみなどが、絶えず起き続けるのです。
肉体を持って生きている生命には、感覚から生まれる渇愛の罠から抜けることは難しいのです。
お釈迦さまは、生命の苦しみの原因が渇愛であると発見したのです。


テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『パティパダー巻頭法話→自分が作った網に自分でかかる』http://www.j-theravada.net/howa/howa210.html


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テーマ: 人生を豊かに生きる
ジャンル: 心と身体

・・・苦しみは束縛によって生まれる・・・

テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『HOME→パティパダー巻頭法話→世間の自由VS.仏教の自由/苦しみは束縛によって生まれる』http://www.j-theravada.net/howa/howa209.html
※抜粋ですので、リンク先↑を開いて読んでください。適宜改行をしております。※


ひとが気づこうが気づくまいが関係なく、束縛は苦しみを作ります。
普通に俗世間で生活をしても、人生は苦しみのどん底なのです。
家族がいることで幸せだと思う。それは自分の生存欲から見れば、味方の範疇に入るからです。
しかし家族を養わなくてはいけない。家族の機嫌をとってあげなくてはいけない。家族を敵から守らなくてはいけない。
一向にひまがないのです。財産がある時、幸せを感じます。それも生存欲の味方だからです。
しかし、財産は勝手に入るものではありません。
入った財産が他人に盗まれることも、王に没収されることもあります。
火事に焼かれることも、洪水に流されることもあります。地震・津波・竜巻などで無くなってしまうこともあります。
とにかく、財産を守る苦しみがあるのです。

 お釈迦さまは、感情の奴隷として生きている事実に気づかないことを、「無明」と呼びます。
「感情という束縛」を断つことが、いちばん難しいのです。
巨大な帝国と戦って植民地になった祖国の自由を勝ち取るのは、難しくありません。
凶暴な独裁者を倒して自由を獲得するのは、難しくありません。インドのガーンディは、武器を持たず軍隊を作らず、最強のイギリス帝国に攻撃してインドの独立を勝ち取ったのです。
しかしそのガーンディにさえ、自分の感情に打ち勝つことはできなかった。偉大なる人とは、自分自身を奴隷にしている感情と闘い、自由を勝ち取った人のことです。


テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『HOME→パティパダー巻頭法話→世間の自由VS.仏教の自由/苦しみは束縛によって生まれる』http://www.j-theravada.net/howa/howa209.html


テーマ: 人生を豊かに生きる
ジャンル: 心と身体

・・・怒りの制御は幸福をもたらす・・・

テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『パティパダー巻頭法話→「敗者の道」』http://www.j-theravada.net/howa/howa50.html
※抜粋ですので、リンク先↑を開いて読んでください。適宜改行をしております。※


もし、相手が本当に悪くて、悪人としかいいようのない場合は、どうしましょう。
理由もなく、自分に害を与える、非難する、侮辱する、攻撃する、自分に対して怒る。
また、犯罪者、殺戮者、破壊者、のような人に対しては、どうしましょうか。仏教の答えは、その場合も怒るなかれ、敵意を抱くなかれというものです。
相手は無知で、悪いことばかりをなしています。
この世でも、何の幸せもなく、苦しんでいます。亡くなってからも、大変不幸になるでしょう。助けたくても助けられない状態です。
かわいそうです…と、相手に対して慈しみの気持ちを持つべきです。
完全な悪人に対してでも、怒ったり攻撃したりすると、自分も余計な罪を犯して不幸になる「愚か者」になります。
悪をなすのは相手であって、自分ではありません。それに腹を立てて攻撃すると、自分も怒りに汚染されてしまいます。
相手を攻撃しよう、非難しよう、裁こうと思うと、結局、自分が攻撃され、非難され、裁かれます。
相手に自分の手で汚物を投げよう、あるいは炭火を投げようとすると、先に汚れるのは、あるいはやけどをするのは自分であって、相手ではありません。
相手が身体をかわせば、汚物は当たらずに被害を受けない場合もありますが、汚物を投げようとした自分の手は必ず汚れます。
ということは、我々は他人に対して攻撃したり怒ったりして相手を困らせようとしても、相手はそれによって困る場合も全く困らない場合もありますが、自分が怒りで汚染されて不幸になることだけは確実で確かなのです。
そういうわけで、いかなる場合でも怒る人は愚か者であり、人生の敗者です。勝利を得たい人は悪人に対しても怒りません。

 さらに、人のためにつくす人々、苦しんでいる人達を助けようとしている人々、また道徳を守る人々、誰にも何の害も与えない人々は、簡単に世の中から非難されます。
いいことをする人に限って無抵抗なため、世の中の攻撃は大変激しいのです。
しかしこれだけは、悪人に対して怒ることよりも、もっと大きな最悪の罪となります。
自分と人類のすべての幸福を破壊する道なのです。良い人に怒ってしまうこと、これは究極的に危険な生き方だと覚えておきましょう。


テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『パティパダー巻頭法話→「敗者の道」』http://www.j-theravada.net/howa/howa50.html

テーマ: 人生を豊かに生きる
ジャンル: 心と身体

・・・考えるとろくなことがない・・・

テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『初期仏教の世界 →心を育てるキーワード集 →VIPASSANÂ BHÂVANÂ: ヴィパッサナー冥想』考えるとろくなことがない http://www.j-theravada.net/pali/key-vipassana.html
※抜粋ですので、リンク先↑を開いて読んでください。適宜改行をしております。※



結局、「考える」とは、自分の貪瞋痴の中でグルグル回っていることなのです。
だから考えるとろくなことがないのです。
自分のことを考えると落ち込んだり、うぬぼれたりする。人のことを考えると怒ったり嫉妬したりする。
人間の問題は、考えること自体にあると言えるのです。
あれこれと考えるのは、ありったけのゴミが頭の中に入っているようなものです。
哲学者のように考えてばかりいる人は末期状態…というのは冗談ですが、実際に、よく考える人ほど悟る見込みは薄いのです。

考えるのは、ものごとを知らないからです。

智慧が出ると、思考が減っていくのです。「智慧とは何か」など我々に理解不可能なことは放っておきましょう。
わかるところから理解すると早いのです。皆、自分が色んなことをゴチャゴチャ考えていることは、よく知っているでしょう? その思考を止めるのです。
ありのままにものごとを観るためには、思考を止めて観察することが必要なのです。

 つまらない思考をやめると、すごく穏やかに生きていられます。
しかし、思考というものはそう簡単には止められないのです。
思考とは、ああだこうだと考える言葉の概念だけではありません。もっと瞬時に生まれる微細な概念も思考です。
何かを見た瞬間に概念が生まれているのです。
言葉が粘り着く前に、何を見たのか知っているでしょう? 言葉は後からついてくるもので、まず思考が先なのです。
ですから、「思考を止める」のは、生半可なことではないのです。たとえて言えば、魚を陸の上で「歩け、歩け」と歩かせるようなものなのです。ヴィパッサナー冥想で、そういうたいへんなことをしようとしているのです。
それをお釈迦さまは「人間を乗り越える道」とおっしゃっているのです。


テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『初期仏教の世界 →心を育てるキーワード集 →VIPASSANÂ BHÂVANÂ: ヴィパッサナー冥想』考えるとろくなことがない http://www.j-theravada.net/pali/key-vipassana.html



テーマ: 人生を豊かに生きる
ジャンル: 心と身体

・・・楽は少なき苦は多き人生・・・

テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『パティパダー巻頭法話→苦に脅迫されて輪廻する』http://www.j-theravada.net/howa/howa206.html
※抜粋ですので、リンク先↑を開いて読んでください。適宜改行をしております。※


 肉体の脆さを知っている心が、栄養として五根から入る刺激だけに頼らないように気をつけているのです。
心が妄想や思考という形をとって、思う存分、栄養を自給生産するのです。それでも心が不安です。
思考しない生命もいるのです。これも見事に解決しています。
どんな生命にも、生存欲があります。死を恐れるという、怯えがあります。この欲と怒りがない生命はいません。この感情によって、心に栄養を自給生産できるのです。
生存欲と死の恐怖感という感情に、嫉妬、憎しみ、恨み、物惜しみ、傲慢、卑下慢、見栄、張り合うこと、などの仲間がいるのです。
ですから、思考能力が無くても、心には存続するために必要な栄養があり余っているのです。
肉体が壊れても、命がそれで終了しないで輪廻として続くのはこの理由によります。考えてみれば、ひとは悪行為をしない限り、死を恐れる必要はないのです。
心は生滅しながら存続するのです。仏教だけが、輪廻こそが生命にとって最大の脅威であると説いているのです。
しかし我々には、生命のからくりについて理解が無いので、死を恐れるのです。
何としてでも生き続けたいという欲を育てるのです。 


テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『パティパダー巻頭法話→苦に脅迫されて輪廻する』http://www.j-theravada.net/howa/howa206.html

テーマ: 人生を豊かに生きる
ジャンル: 心と身体

・・・悪はつねに起き続ける・・・

生きとし生けるものが心身健やかで安寧で幸せであらんことを



テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『パティパダー巻頭法話→なぜ悪があるのか』http://www.j-theravada.net/howa/howa205.html

※抜粋ですので、リンク先↑を開いて読んでください。適宜改行をしております。※


 悪は何処から来るのでしょうか。何処からも来るわけではないのです。
いま・ここで、悪が絶えず起き続けているのです。これが答えです。その説明に入りましょう。

我々には眼が二つも付いています。眼が開いている間は、絶えず様々な色や形が映るのです。ストップすることはできません。
見られる対象はどのようなものかと客観的に調べる余裕は無いのです。見る瞬間に眼識が生じて、判断してしまうのです。
自分の主観で、自分の好みで、判断が変わるのです。
心に、①好き、②嫌い、③面白くない、という価値判断が起こるのです。あっという間の出来事です。好き・嫌い・面白くない、という判断は、貪・瞋・痴だと言うのです。
貪瞋痴は心の汚れなのです。行為をするためには、判断が欠かせません。
そこで、何かを見て下した判断は、貪瞋痴のいずれかです。眼から入った情報を認識してする行為は、善になりますか? 悪になりますか? 答えは簡単です。行為を起こした判断は、貪瞋痴で汚れていたのです。ですから、悪行為です。

 ただ眼を開けていただけなのに、悪が流れてくるのです。行為とは身体でおこなうことだけではありません。
話すことも、考えることも、行為です。何かを見たところで、先に考えるのです。それから話したり行動を起こしたりもするのです。
というわけで、見るだけの行為であっても、心が汚れることは避けられません。悪が起こることは避けられません。
見るということは、善でも悪でもない。眼があるから、見える対象があるから、起こる現象なのです。意識して判断して見る場合もありますが、普通は自然に起こる現象です。
それが悪に変身するのです。それで、眼を通してノンストップで心に悪が流れてゆく過程を理解できると思います。

 認識器官は、眼だけではありません。耳もあります。眼は閉じることができますが、耳にはその自由もありません。絶えず音が流れ込むのです。それで耳識が生まれて、瞬時に判断する。その判断もまた、貪瞋痴なのです。現代では、外の雑音は好まない・面白くない・退屈(怒りと無知)という判断をして、イヤーホンを付けて自分好みの音を聴き続けています。それは意図的に欲に基づいて聴覚を作ることです。眼と同じく、耳を通してノンストップで心に悪が流れるのです。

 人は、鼻と舌を通して嗅覚と味覚を作ります。眼と耳と比較すると、それほど激しい流れでは無いのだと言えますが、現実はそうでもありません。鼻も舌も、常に香りと味を感じる準備を整えてスタンバイしている。
情報が触れた瞬間で、認識と判断を行うのです。鼻と舌を通しても、ノンストップで心に悪が流れるのです。

 五番目の感覚器官は身体です。眼を閉じて何も見ないで居ることも、耳栓をして音が入らないようにすることもできますが、身体で感じることはストップできません。もし人が突然、足を感じなくなったり、手を感じなくなったりしたならば、それは大変です。
びっくりします。怖くなります。病気だと思います。ですから、身体は眼よりも多く仕事をしているのです。熟睡しない限り、身体が情報を認識することは止みません。熟睡している時も、何かが触れたら感じられるようにと、準備を整えてスタンバイしているのです。身体を通しても、ノンストップで心に悪が流れるのです。

 最後の感覚器官は心・意です。五感から入る情報を認識しなくてはいけない。考えなくてはいけない。過去のデータと比較しなくてはいけない。瞬間たりとも休みなく仕事をしているのは、心です。
見るもの、聴くものなどが無くても、心のなかで思考は回転します。絶えず妄想するのです。妄想を引き起こす原因も、貪瞋痴です。意のなかで五感と比較にならないほど大量の悪が流れます。
この場合は、流れ込むというよりは、「湧き出す」という単語のほうがよいと思います。


テーラワーダ仏教:スマナサーラ長老『パティパダー巻頭法話→なぜ悪があるのか』http://www.j-theravada.net/howa/howa205.html

テーマ: 人生を豊かに生きる
ジャンル: 心と身体

・・・年末のご挨拶・・・

今年も、更新が少ないにもかかわらず

見ていただいた皆様、協力していただいた仏教関係の皆様方

本当にお世話になりました。ありがとうございます。



来年ですが・・・また私事で大変恐縮ですが、新しい命を授かりましたので、産み・育てる母親としての役割も増えるため、更新が滞ることも多々あると思いますが、また更新はしていきたいと思いますので、気を長くしてお待ちくださいませ。

皆様の心身共に健やかであられることを祈念しております。
よいお年を


生きとし生けるものが幸せでありますように



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